言葉や習慣、地理、気象条件等の全く異なるブラジルに移住し、自らの手で
生活の道を開き、そして地盤を築いていった日本人ブラジル移民。


★笠戸丸★
1905年の日露戦争で活躍した、ロシアの病院船を改装した笠戸丸という古船がサントス港第14埠頭
に着いたのが1908年6月18日でした。
この船には、第1回日本移民791人が乗船していました。
ブラジルの日系人社会では、この笠戸丸が到着した日を移民祭として各種の記念行事を毎年催すし
きたりとなっています。

 

★戦前戦後の移民★
太平洋戦争が始った1941年までの33年間に、ブラジルに渡った日本人移民は約19万人でした。
戦中戦後移住は途絶えた後、1953年に移住が再会され、現在まで約6万人が日本から永住を目的として渡りました。
ブラジルの日本人の歴史は大きく分けて、第2次世界大戦をはさんで戦前と戦後に分けられます。1908年の第1回移民から第2次大戦が始った1941年までの33年間は、主として移住の目的とそれにからむ契約のため農業に従事し、主に広大なコーヒー園の労働者として働きました。
移民の初期は奴隷同様の扱いを受けたりもしましたが、他の国々からの移民者に比較して、日本
人は勤勉で研究心も旺盛でしたから、次々に自作農として独立し、特にサンパウロとパラ州の農業
の発展に大きく貢献しました。

★世界最大の日系人社会★
現在ブラジルには約150万人の日系人が生活しており、海外で最大の日系人社会が存在するわけです。
その中でも日本人(日本国籍者)は9万人程で、140万人以上がブラジル生まれの、いわゆる2世〜5世に成ります。

★子供教育★
移住の動機はほとんどが出稼ぎで、金を儲けて郷里に帰るというのが夢でした。
しかし、苦しい生活の中で移民者たちは、その子供達の教育に異常とも思える情熱をそそぎました。
最大の目的が1日も早く金を儲けて日本に帰るということですから、普通ならすべてを犠牲にして稼
ぐ事に奔走するところですが、貧しい生活の中で欲しい働き手であった子供達を、他をかえりみる
ことなく、出来る限りの高い教育をほどこしました。
現在ブラジルの政界・大学教授・判事・将軍・上級公務員・医者・弁護士・その他高い地位につく日系人が多数に存在し、活躍しているのも、この時代の日本人達の努力の集積だといえます。

★逆流現象★
1988年頃から日本の好況と反対にブラジルの永い不況もあって、沢山の日系人達が日本に出稼ぎに来る傾向が見え始めました。
短期間の出稼ぎ目的が、現在では長期に渡り生活するという型に変わりつつあります。
皮肉にも反対の現象となって今約25万人の日系人が日本で働いています。
言葉のわからなかった日本人移民達を差別することなく、温かく迎えてくれたブラジル人の様に、日本の方々がこれからの日系人達を温かい目で見守ってくれることを願っています。
そして、みのりの多い訪日であるよう祈っています。


★出稼ぎ移住パタン★
@ブラジル移住一世(永住権者)
  日本に2年滞在し、ブラジルへ一時帰国後、また、日本へ来る。
A所与の目的達成後帰国したものの、第2・3の計画を立て再度日本へ来る。
B再入国者(一時帰国)
C起業家のケースで日本・ブラジルで起こしたビジネスの世話をするため日伯間を往復する。

★再入国★
93年度すでに、定住者査証での入国者のうち、再入国者の比率は94%
日本人の配偶者査証の入国者のうち、再入国者の比率は59%

★出稼ぎの目的★
住宅の購入 59%
ブラジルでの事業資金 35%
勉学の為の資金 3%

内、きわめて具体的な計画を持っている人は24%、54%は漠然とした構想しか持っていない。
事業開始期についてもわからないという人は43%
事業開始者のほとんどが失敗に終わり、再び日本へ出かける人も多いようです。

★航空券★
94年迄は、ブラジルからの往復航空券が全体の7割だったが、97年からは、日本発券の往復券が
全体の8割を占めている。

★最低給与★
サンパウロの最低給与は$130レアル(US$68.4)2000年11月現在
出稼ぎ者の帰国後の収入は...
なし→48% 失業中→32% 最低給与の1〜5倍→27%

★家族滞在の日本人子弟数★
0歳〜4歳→1万4380人 5歳〜14歳→1万7567人 15歳〜19歳→1万7517人(1998年)

★社会上昇★
日系人出稼ぎ者は、日本社会の中で社会上昇を図ろうとする意志や努力が欠如している。
日本でやりたいこと38%が貯金、生活を楽しむことが17%、日本で事業を開始するが2.5%
勉強をする3.6%
日本で積極的に何かを行うという志向性の持ち主は一割程に過ぎない。

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